我が人生は「不要不急」か? 最終回

       『人は生きている限り…』


 

話の発端

 

 朝日新聞に「折々のことば」というミニコラムが毎日掲載されていて、鷲田清一氏が面白い話を紹介しておられる。しかし、余り短文なので、時に議論(余韻というべきか)が残る。その一つがここに紹介する表題のコラムである。

「人は世の中の役に立ってしまう」という、いささか奇異な表題の文章は、石田千という小説家のエッセイ「役立たず」から引用されたものである。石田氏は、「犯罪者だって、警察が動けばガソリンや張り込み中のパンが必要になるし、収監されると職業訓練で人々に貢献する。つまりは金銭物資の流通が起こる。」といっている。その要旨を鷲田先生は、“人はただいるだけで意味があるが、そもそも役立たないでいることが難しい”と要約されている。この言葉の意外性には興味を惹かれるが、意外性と同時にいくつもの問題点が含まれていることに誰もが気づくだろう。

 

 

大きな疑問、「社会の役に立つ」とは

 

まず気になるのは、石田氏のいう「役立つ」ことの中身である。ここでは、“金銭物資の流通が起こること“とされている。犯罪者の例では、犯人の逮捕の際に必要なものと、警察活動に伴い必要となる経費が、GDPで計られる経済の指標を増加させる。この犯罪ひとつでは、額は僅かであるが、もし大規模なテロやオウム事件のような場合、その金の流れは膨大なものになるだろう。戦争は巨大な経済効果(GDP増大)をもたらす。世界の大財閥はそれで生まれ、維持されているらしい。戦争によって金銭物流の大きさを表すGNPGDPは増大する。だから、不況になれば経済界は戦争を待望するが、これらは社会全体の倖せにとってはマイナスであることは明らかである。だからこそ、GDPは真の経済の豊かさを表す指標として適切ではないという議論がずっとされてきた。

以上を要約すると、あらゆる出来事は、「特定の人々(この例では、警察の仕事)には必ず何らかの効用(雇用創出)があり、また尺度の決め方(この場合単ある金の流れ=GDP)によって社会の効用として計算されることになる」というのがより正確な表現だろう。GDPを上げるからといって、犯罪や事故を奨励すれば社会は悲惨なことになる。つまり「金の流れを増やして、“特定の誰か”に役立つことと、社会全体の真の幸せに役立つ」こととは別問題である。

鷲田さんもそんなことは百も承知でこのコラムを書かれたのだろう。だとしたら、ここで哲学者としての先生の問い掛けは何だったのか。まさか形而下(俗世界)のことには無知だった、という筈はないので、「本当に社会に役立つ仕事とは何かをよく考えなさい」というメッセージではないかと思う。(ご本人に質問したが、返事は無かった)

これは簡単なようでとても難しい問いである。その理由は、一つには、“役立つ”ということの中身と、もう一つは、社会とは“誰のことか”という対象の定義であるが、どちらもが深い議論を要するテーマであるが、それを以下に考えてみよう。

 

 

社会を本当に幸せにする仕事

 

警官に仕事を作るから犯罪は社会に役立つという理屈には、そうだと賛成はしがたい。それなら消防はどうだろう。放火犯が“俺は消防署に仕事を作ってややっているから社会に貢献している”と言われたら、誰も“ふざけるな”と怒るだろう。では病院、ゴミ処理業、さらには我々の環境保全の仕事も含めて、社会が被るマイナスを食い止め、保全・修復するための仕事はどうか。土木学科のある教授から、“お前たちの環境公害工学は、無くて済めば社会は幸せ”と言われたことがあるが、間違ってはいない。ご自分は文字通り「建設的」な仕事をしているが、お前たちは何も作り出していないと言いたかったのだろう。ただし、土建屋さんが作ったものがすべて世の中に役立ったかはまた疑問も多いが…。

それでは、老人や障害を持った人など広く社会的弱者のための福祉はどうか。いまその費用が国の大きな財政負担になっているが、それは言葉を変えると社会の金銭物流に大きな役割を果たしている証拠でもある。だからといって筆者も含めた高齢者が、介護の費用を使ってやっているから、“世の中の役に立っている”と威張るには遠慮がある。確かに介護関連の雇用増大に役立ってはいるが、それは国の負担となり、麻生財務大臣に「いつまで生きるつもりなのか」といわれることになる。では社会の幸せのためには姨捨が要るのか?

これらはとても難しい課題である。石田氏の、「誰もが生きている限り役に立ってしまう」という言葉は、この難題(「存在価値」論)に対する問題提起なのかもしれない。

社会に負担をかけて発生する経費は「社会的費用」と呼ばれ、社会全体の幸せ・豊かさにマイナスとなる。とはいえ、犯罪、病気、環境破壊などはどうしても避けることができないので、それを防ぐための活動は必要経費として公的な支出が必要である。これを民間の市場に委ねたら効率的にいくという新自由主義の主張が大きな副作用がを齎すことは、小泉・竹中改革で証明済みであるのに、また菅になっても竹中を重用してそれを推進しようとしている。病気や災害などのマイナスは元から絶つことが経費も少なくて済む。予防医学や防災、そして脱温暖化対策が求められるのはそのためである。 

 

 

社会に役立つとことの本当の定義

 

社会に負担をかける社会的費用の議論が難しいが、その逆の「社会的効用」の定義はどうか。誰もが認める“社会に役立つモノやサービス”の代表は、「衣、食、住」であろう。これは人が生きる必須のモノであるから異論の余地はないように思えるが、ことはそう簡単ではない。生存に必須の米1kgより、腹の足しにはならない金1gの方が高価なのはなぜかという問答はよくされる。

そこで、「神の見えざる手」つまり人の欲求に応じて自由に値付けさせたらいいというのが「市場原理」である。旧ソビエトのように、あらゆるモノやサービスに役所が価値づけをしたが、人々の欲望に任せて売り買いさせたら、双方が納得する値に落ち着くという方法が簡単で合理的である。というわけで、(欲望)資本主義が世界に広がった。しかし、この副作用がいま社会に大きな問題を齎している。その第一が、誰のものでもない(と思われがちな)「環境や資源(公共財、共有材=コモンズ)」がタダ同然で、資本に大量消費されることである。第二が、近年の資本主義経済の仕組みの中で、不当な格差が増大することである。

では、どんなものが本当に社会に役立つと定義したらいいか。いま考えられるのは、

     環境・資源については「その許容限界を設けて、その範囲に人間活動を収める」

     格差については「誰もが望む幸せとは何かという指標を定義し、それに即して社会を作り直していくこと」

である。どちらも人間の欲望に反するので市場原理に任せられない難題であるが、いま地球環境や社会の危機を実感して、欲望を我慢して①、②の作業をする動きが出てきた。それでも、日本においては被害者自身が、現状の経済的な苦しさゆえに経済成長という「毒針の疑似餌」に食いついていく。これを見ると、未成熟な民主主義は結局は衆愚政治になっていくという声も一理ある。

このように、社会に役立つということを定義するには、「誰にために、どのような」を明確にしなければならないが、その議論は国の統治方式にまで及ぶ難しい課題になる。

 

 

人が幸せに生きていく社会をつくる

 

以上のような難題を踏まえて、真に社会が豊かになっていくにはどうすればいいのだろうか。いまや地球環境問題が最大の危機とも考えられ、「地球にやさしい」ことが喫緊の課題だが、どんな行為も地球には何がしか負荷をかけるという意味では、“やさしい”ということはあり得ない。そのことを踏まえると、ここでの結論は、最初の鷲田先生の、『人はただいるだけで意味があり、そもそも役立たないでいることが難しい』とは真逆になって、『人はただいるだけで社会と自然に迷惑をかけ、そもそも迷惑をかけないで生きていくことはできない』というのが正しいことになる。だがこれでは当たり前すぎて話題にならないかも。

今、人類が直面している2つの課題、「地球環境問題」と「社会格差」は共に、強者による弱者に対する収奪が原点である。ただし、いまの弱者切り捨ては、現世代の強者の論理で動いているが、世代間の弱者切り捨ては、地球自然の破壊であり、それは地球生命系の崩壊に繋がる。ここに、「社会的善悪」を超えた「科学的摂理からの制約」を前提とすることが、これからの人類持続のために必要となる。

人類の歴史は奪い合うことにより滅んだ文明の積み重ねといっていい。なので、この人間の性(サガ)からも、分かち合いというのはあまり期待できそうにない。だからこそ、幕末に日本を見た外国人が、「少ないモノで満足する」という生き方に驚き、また戦後のGHQの一員であったヘレン。ミアーズが、初めて日本社会を観て、日米戦争の原因を一方的に日本側に押し付けるのは間違いだと主張した(***)。

 

 

人の行動や活動をどう分類するか

 

ここまでの議論に則って、人間の様々な活動を、「1.社会に役立つ」、「2.地球にやさしい」、「3.経済的に豊かである」という、『経済、社会、環境』の3つの尺度で図に表した。ただし、これらの数値は著者の感覚で描いた定性的なものである。

・縦軸は地球負荷(CO2を尺度として)。

・横軸は、とりあえずGDPで表せる経済の活動量のイメージである。

・〇印は、人間の活動が、人間社会に役立っている程度を表す。これには、「幸せ指標」などを定義する必要があるが、ここでは「安全、健康、快適、利便」とう旧来の倖せ要素を定性的に想定した。

・第Ⅰ象限は、「経済」と「地球にやさしい」領域。この象限に入る人為活動が無いのは、人間の活動は、すべてが地球に負荷を与えることを意味する。

・点線は、地球環境負荷の限界で、「低炭素社会」と「「脱炭素社会」それぞれの限界を想定している。

 まず気になるのは、石田氏のいう「役立つ」ことの中身である。ここでは、“金銭物資の流通が起こること“とされている。犯罪者の例では、犯人の逮捕・収容の際に直接必要なモノとサービスから生まれるものと、警察活動に伴い必要となる経費が社会にとっては金の流通でもたらされる経済(GDPで計られる)のことである。この犯罪一件では、額は僅かであるが、もし大規模なテロやオウム事件のような場合、その金の流れは膨大なものになるだろう。これらは社会全体にはマイナスであるが、金銭物流の大きさを表すGNPGDPには貢献する。だからこそ、それらが経済の指標として適切ではないという議論がずっとされてきた。

以上を要約すると、あらゆる出来事は、「特定の人々(この例では、警察の仕事)には必ず何らかの効用(雇用創出)があり、また尺度の決め方(金の流れであるGDP)によっては社会全体の効用として計算される」というのがより正確な表現だろう。GDPを上げるからといって、犯罪や事故を奨励すれば社会は悲惨なことになる。つまり「特定の誰かに役立つことと、社会全体に効用をもたらす」こととは別問題である。

鷲田さんもそんなことは百も承知でこのコラムを書かれたのだろう。だとしたら、ここで哲学者としての先生の問い掛けは何だったのか。まさか形而上の世界の方なので、形而下(俗世界)のことには無知だった、という筈はないので、「本当に社会に役立つ仕事とは何かをよく考えなさい」というメッセージではないかと思う。(ご本人に質問したが、返事は無かった)

これは簡単なようでとても難しい問いである。その理由は、一つには、“役立つ”ということの中身と、もう一つは、社会とは“誰のことか”という対象の定義であるが、どちらもが深い議論を要するが、それを以下に考えてみよう。

 

 

図:人間の活動分類

では、これからどうしたらいいか

 

上述のように、20世紀後半に入ってからの急速な経済成長によって、人類史上で初というほどのモノの豊かさと便利さを実現した。しかし、その副作用として様々な危機が顕在化したが、その最大の要因は、「石油」の大量消費に支えられた「産業と経済」の進展にあった。この『豊かさを実現した行動そのものが危機の原因』となっていることが、問題解決の難しさをもたらしている。さらに、この「功と罪」が皆に平等に配分されないために、利害の衝突を生んで、ことが一層難しくなっている。

今の危機を作り出したのが、大きな資本と巨大な技術、それを支えるグルーバリズムにあるとしたら、その恩恵に浴すことなく衰退してきた「地方」にこそ解決のカギがある。ただし、金も技術も力もない「地方」にあるものは、貴重な「自然資源と社会資源」であり、それを生かせる、志を共有して行動できる仲間の力である。

これらの資産に恵まれた地方の一つである淡路島に期待して、新たな将来社会を実現してこうとするのが、「NPOソシアルデザインセンター淡路」である。人類持続の望みを掛けた「救命ボート」を自らの力と資源で作ろうということである。その理念に共鳴する人が次第に増えている。なお一層多くの方々の参加を期待して、この校を終える。

 

 

   鷲田 清一:折々のことば(261), 朝日新聞朝刊, 2015.12.25.

** 石田 千:役立たず, 光文社新書, 2013.

***Helen Mears1900-1989)。1948年に原著"Mirror for Americans: Japan"を出版。

1946年、GHQの諮問機関のメンバーとして来日。)

 

今回は長文になりましたが、筆者の仕事の集大成としてまとめたものですが、これまで3回の「不要・不急」に繋がっていると思って、これを最終回にしました。)