門弟入Montaigne 内藤正明

「思い出の記」 ~著名人との出会い~
これまでの「終末の記」は、“老い”というものの実態を、できるだけ客観的に記すことを目指してきた。それは、すでに老いている人、これから老いようとしている人の生き方に、何らか参考になるようにと思って書いてきた。しかし、老人が何かを話したり書き残そうとする場合、普通は「過去の栄光」に属することを知ってもらいたいという願望が動機になることが多い。そこで、小生もここでその種のことを書いてみようという気になった。

哲学と科学に関する炉端談義
哲学というのは“人間とは、社会とは、世界とは”といった、人間が抱く根本的な疑問を探求する試みである。筆者が断片的に耳にしているのは、ギリシャ哲学から始まる西洋哲学の系譜である。この西洋哲学とは異なる、インドや中国などの東洋思想については、耳学問すら無いので、ここでは検討の外におく。

「終末の記」 ~「魂」の存在は?~
先に、息を引き取る「まつご」のことを書いたので、それでもうシリーズは終了のはずであった。しかし、死というのを深めていくと、「魂」の有無の議論が残っていることに気づいた。

「終末の記」 ~末期(まつご)にあたって~
終末期を書いてきたが、老人の心得の最後は、いずれ来る「終焉」つまり息を引き取る「まつご」のことである。わが身にも間近に迫って覚悟ができている積もりであったが、いざその時を想像すると、本当に覚悟があるか心許ない。

「終末の記」 ~認知の観察記〜
いま世の中で大流行の「認知」とはどんなものか?多くの専門家が発言されているのに、素人が今さら何を言えるか分からないが、もしあるとすれば身近に実例があるので、それを題材にして話を作ってみようと思った。そこは恐れと恥を忘れた高齢者の強みで?

「終末の記」 ~老人は生産性がない?(その2)~
杉田水脈議員が「生産性」によって人の価値を測るようなことを発言している。今の日本社会では杉田さんの主張を支持する人が多いが、そう言われると老人は生産どころか社会にマイナスであるともみえる。もしそれで、老人が評価されて姨捨山に捨てる法案でも作られたら大変だと、反対意見を言いたくなったが、反対の根拠を上げるのは容易ではない。

「終末の記」 ~老人は生産性がない?~
「生産性」という言葉が頻りに使われるようになった。その筆頭が国会議員の杉田水脈氏である。生産性といえば、最も生産性がないのは高齢者であろう。そこで、今回は老人と生産性について考えてみる。もちろん幼児も病人も生産性はないが、先々で生産をしてくれる可能性があるので、そのために教育、治療をしようということになる。何せ、国会議員が先頭を切って「生産性社会」を唱えているのだから、高齢者は「姨捨山に行くべし」という正面切った法律はできないとしても、取り上げるモノがあれば出来るだけ搾り取ろうといった制度でもできるだろう。

「終末の記」 ~忘れることと覚えていること~
そもそも、誰かに見せるというのではなく、もう特に何もすることもなくなった自分の“最後の拠り所”として書き始めたのがこの「終末の記」である。しかし、そうはいっても面白がって読んでもらえると励みになることも確かであるが、今回は原点に還って自分の心情について書き残したことを追加する。特に、記憶に関することは、最大の課題である。物忘れ、認知などは忘れる方で、これは顕著であるが、一方では、古い記憶が懐かしくて忘れられない思い出となる。

「終末の記」~敬老される条件について~
続きを読みたいという声は“お世辞”かも…とは思ったが、モノゴトは良い方に考えなさい、というのが先に紹介した“102歳の哲代おばーちゃん”の教えだったので、この際、言いつけに従って、良い方に解釈して続きを書くことにした。今回も久坂部羊氏の言葉1)を借りて話を始めることにします。

「終末の記」~こんな明るい100歳もいてくれる~
人生の終末を強く意識せざるを得ない切掛けがあり、終末老人が出会う「身体と心の状態」を見つめながら書いてみました。しかし、その心象は決して前向きなものではなく、外からのリクエストもなく、ただ何かをしていないと無聊を持て余すというネガティブな気持ちがその原点にありました。ところが、この嘆き節をたまたまお見せした方から、思わぬ評価をいただきました。しかも続きを期待しているとの嬉しいリクエストまでもらいましたので、今回は少し勇んで書いてみようと思います。

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