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「戦後日本の設計者 ボートン回想録

「戦後日本の設計者 ボートン回想録」を読んで

著 ヒュー・ボートン

監修 五百旗頭真

訳 五味俊樹

文:木田 良輔

 

・歴史的な記録の意義

歴史を客観的に考察することは、非常に難解である。まず当時の状況を正確に把握するためにも、膨大な記録を整理し、真偽を審査し、時系列ごとに関連性を持たせてまとめるだけでもかなりの労力が必要であり、そこに主観性が入り込む余地も大きく、記録者の背景なども考慮する必要がある。その当時の記録をもとに、戦時下といった混乱した社会を俯瞰し、当事者の行動と体験をもとに回想するならば、そこには著者の主観が入り込み、日本の当事者とは全然違う視点で記述されることになるということは前提として許容しておく必要がある。戦後日本の設計に関して、時代ごとに評価が変化する可能性もあり、現在の視点からの評価と、当時の評価はおそらくまるで違ったものであり、評価の違いに関してもその本質を追求するならば、正確に把握することは非常に難解といえる。

ただ、歴史的な記録を残すことは、その記録が正確であるほど有意義であり、本書のような記録が社会的に尊重され、保存され、貴重な情報として残されていくことは、人は歴史に学ばないとしても、僅かな進歩として意義があると私は思う。

 

・ボートンに関して

 本書はボートン回想録なので、ボートンの生い立ちからスタートしている。出身地はアメリカ東部のニュージャージー州フィラデルフィア郊外のモレスタウンであり、両親はクエーカー教徒である。先祖は、イギリスからアメリカのフィラデルフィアに渡ってきた「シップ・クエーカー」である。喫煙や酒類は禁止されており、ワインやアルコール類は一切飲食したことがない程の敬虔な教徒であり、第一次大戦時、アメリカがドイツに宣戦布告した際にも反対した、平和主義者である。ボートン自身はフィラデルフィアのハヴァフォード大学に学び、その後教員を経て、ハーバード大学にて学んでいる。

 その後初めて東京に訪れたときは、普連土女学校のお世辞にも美しいとは言えないアメリカンスタイルの古い校舎が第一印象であり、東京に関しては西洋風の国会議事堂、外務省大蔵省などが印象に残っている。特に印象に残ったのは皇居であり、際立った姿をみせていたとある。他にはフランク・ロイド・ライトの帝国ホテルなどもかなり印象に残っているとある。ボートンが最初日本に訪れたのは1928年の秋ごろであり、そのころの政治状況に関しては、当時の日本政府は内外に対して、事実を歪曲したり隠したりして伝えていたので、正確な情報は得ることができなかったとある。現代も同じような情報の隠蔽を行っているが、当時からあまり変わらない様子である。時の首相は、帝国陸軍の中で最も勢力を誇る「長州派閥」に属し、自他ともに認めるリーダー格の田中義一陸軍大将であり、生粋の国粋主義者であり、皇室の不可侵性を強調する「国体」を主張していた。満州と蒙古に関して、日本の特殊権益の拡大をはかることで、中国に対してあくまで攻撃的政策をとろうとしていたとある。当時は武官が首相をしており、現代日本とはまるで違う政治体制であることが容易に読み取れる。田中内閣は蒋介石の南京「反共産主義政府」を公に支持している。その後満州国では張作霖が暗殺される。これに関して、ボートンは新渡戸稲造博士によって日本軍関与が強められたと記録している。新渡戸博士の妻は、フィラデルフィア出身のクエーカー教徒のであり、メアリー・エルキントンであり、ジョンホプキンス大学で博士号を取得後、国際連盟の事務次長を務めている。ボートンもクエーカー教徒として、新渡戸博士に招かれたりしている。「武士道」という著書を書いた新渡戸稲造博士が、当時陸軍大将の田中首相のモラル欠如を非難し張作霖爆殺の非難追及してる点は、現代の歴史ではやや不思議に映る。

 ボートンの視点から見れば、著書にもあるが「国粋主義者」が日本の天皇の儀礼を利用し、「平和と文明開化」の意味を持つ「昭和」の最初15年間を巧みに利用していたとしている。ボートンはその後、日本国内を鑑賞し、奈良の正倉院や法隆寺なども訪れ、日本の芸術性の高さに感心している。

 

・日本国内の状況

 その後田中内閣は失脚することになるが、1945年の9月に明らかにされた証拠からすると、ボートンの推察は一部しか当たっていなかった。田中は張作霖爆殺には関与しておらず、関東軍がやったことを、調査団を派遣してようやく知った。田中は天皇に責任者を処罰すると約束するが、陸軍と閣僚に反対され、天皇との約束を守れなかった田中は失意の元辞職することになる。その後、立憲民政党の浜口雄幸が首相になり、地方の政府機関の緊縮財政に努め、金本位制に戻す提案を行っている。中国とも協調外交をはかり、列強に軍縮を呼び掛けている。この辺りは、若干現代の自民党の政策に被るところがある。しかし、その後の19291024日のニューヨーク証券取引所の株価暴落に伴う大恐慌により、日本経済に大きな打撃を与える。そして、マルキシズムや社会主義がブルジョア階級打倒の解決策として広まることになる。政府のとった対策は、日本の「国体」を信奉させること。天皇への忠誠を誓うことであった。戦前の文民内閣にとって最高の瞬間は、浜口首相が海軍の反対を押し切って、ロンドン海軍軍縮条約を批准したときだった。日本は戦艦建造費を約8億円節約でき、欧米列強に文民内閣が日本の軍部を抑えられることを証明できたからである。しかし、その後1930年の11月に浜口は暗殺未遂に遭い、首相を辞職することになる。当時の警視総監も責任を取って辞職している。ボートンは、本国への手紙の中で、「浜口は田中より格段に優れた首相であった。」と評している。

 このあたりのやり取りでも、ボートンがクエーカー教徒の平和主義者であり、国粋主義者の田中首相より、軍縮を行った浜口首相を高く評価していることから読み取れる。

 ボートンはアメリカン・フレンズ奉仕団の派遣としての日本で3年滞在し、本国に戻りコロンビア大学の修士課程をとり、日本研究を続けることになる。

 その当時の欧州の動きはドイツでヒットラーが総統になり、日本は中国への勢力拡大を目指し、国際連盟を脱退し世界から批判されることになるが、日本政府はそれを全く無視していた。

 アメリカにはそれほど影響はなかった様子で、ボートンはその後オランダのライデンへ行くことになる。ライデンでの生活は楽しかった様子で、「ライン川」など色々オランダを褒め称え、魅力ある小都市と評している。ライデン大学で、研究する中、中国に関してもかなり研究していたボートンは、五来欣造の「ドイツ政治思想への孔子の影響」などを英訳している。

 1935年にボートンは日本東京を再度訪れることになる。1931年の大恐慌の後、政府の腐敗政治の非難による急進右翼の行動が激しさを増し、19322月に井上準之助前蔵相、三井財閥幹部の団琢磨男爵を暗殺。5月には「五・一五事件」で犬養毅首相を急進右翼が暗殺する、また「政治の腐敗」抗議として、東京の警視庁本部を襲撃した。それにより、政党の力が弱まり、帝国陸軍が力を増す。その後日本では天皇に対する不可侵性を信奉する考えが強まりをみせ19352月、美濃部達吉教授が帝国議会で不敬罪で糾弾される。帝国議会が「国家の一つの機関」であり、天皇から権能を与えられた組織ではないという内容の理論を展開していたからである。そして、19362月に「二・二六事件」が起こり、閣僚暗殺のクーデターが起こる。警視庁を始め、付近の重要地点は反乱軍に占拠されていた。

 1936年夏にボートンは本国アメリカに戻り、コロンビア大学で研究を続けることになる。

ボートンはコロンビア大学で日本研究を評価され、様々なプログラムに参加している。中国研究の拡張も提唱され、これにより、「コロンビア大学は極東研究の指導的立場に立つ」ことが可能になるとボートンの指導教官のエヴァーツ・B・グリーン教授が述べている

 日本はその後中国や東南アジアへの進行により、イギリス・アメリカの不信感を募らせていく。1941年にドイツのロシア侵攻が始まり、日本はアメリカの禁輸政策に反発し、真珠湾攻撃の太平洋戦争へと進んでいく。

 

・外交問題評議員会の研究

 ニューヨークの名高き外交問題評議会は「日米間における真の平和の基礎」に関する研究グループを設立するために、その手伝いをボートンに依頼する。議長にはジョージ・H・ブレイクスリー教授が承諾し、真珠湾開戦の前に3回この評議会は開かれた。19423月に4回目の評議会が開かれ、議題は主に、「日本にどのように平和を求めたらよいか」である。中には、中国の台頭が怖いから、朝鮮と満州の統治を続けさせるべきという意見もあり、これには反対者が多数いた。ブレイクスリー博士は、議会を要約し、日本の強大な軍隊を破壊することが、東アジアの平和にとって重要という結論が出た。日本の武装解除を基礎として、日本の内政にどこまで干渉するかが議題の中心となった。アメリカの基本的な戦争目的は全体主義とその根本原理を打破するというものであるが、ハル国務長官の内政不干渉の原則に違反するという主張に矛盾する。ボートンは、戦前の憲法で与えられている、軍の特権を撤廃することであると主張している。

 太平洋戦争が開始されて直後の19422月に、戦後の処理に関して諮問機関が立ち上げられている。日本の戦後計画の領土小委員会(TS)にはジョンズ・ホプキンス大学学長  アイザヤ・ボーマン博士が議長として選出された。ボートンは日本の政治体制に関して論ずる前に、天皇制に関してかなり議論の中心としている。憲法において、天皇が軍の統帥権及び、軍の編成権並びに常備兵の決定権が与えられている。これは軍部が明治憲法によって与えられた特権を使って免れていることを指摘している。天皇に問題を上奏することで、裁可を得て軍部が自由に振舞うことができる。故に憲法上の規定は廃止されるべきであるとボートンは主張している。前駐日大使のジョセフ・グルーも、天皇制に関して是という評価を

している。但し、当時のアメリカのマスコミは天皇を天敵として戯画化し、グルーの主張はかなりアメリカでは不評であった。国務省内でも、中国に滞在経験を持つ外交官からは不評であり、天皇の退陣を支持していた。

 1945年の日本の無条件降伏まで、ボートンとボーマン博士は日本の立ち位置に関して、かなり議論が繰り返された。議題は、日本の民主主義的な経済復興と世界貢献に関して、漸次日本が生活水準が徐々に向上していくようにすべきという意見について。それと、天皇制に関して、民主主義との関連から、存続すべきか廃止すべきか、という観点について。ボートンは何度となく草案を提出している。報告書(PWC116)に関して、(1)地方分権と集中排除の可能性に関する報告書、(2)日本の軍国主義を除去する方法に関して、結論を求められることになる。ここで、ボートンは、日本の軍部に政策を左右する権利を与えた憲法上の規定や手続きを無効にし、民主主義の発展やリベラルな勢力の台頭につながる経済状況の促進などを提言している。また、政治制度の基本的改革として、立法府に完全な予算権限を与え、司法府の真の独立を目指すことを求めている。

 この辺りの、ボートンの草案は現代の日本の政治体制や自由民主党といったリベラル勢力の台頭や権力の維持に関してつじつまが合う。また、日本の軍部が政策に関与することを憚られ、また排斥されているのも腑に落ちる内容である。戦後80年近く経っても当時の草案の通り日本の政治が動いているのは、当時のアメリカの用意周到さが際立っていると感じる。

 ボートンの草案は何度も、ハル国務長官の代理のブレックンリッジ・ロングから反対されるが、最終的に、天皇制を存続させながら、「軍国主義の除去」を上手く報告書にまとめ承認される。これに関しては、日本の国体を辛うじて維持できたことに、ボートンに感謝すべきであるとひしひしと感じた。

 

・日本の無条件降伏

 ルーズヴェルト大統領に関しては、多数の著書があり現代でも色々物議を醸しだしている人物である。ボートンの著書にも、ヤルタ会談後のお気に入りの保養地で亡くなっている。終戦間際に、都合よく亡くなっているのも暗殺説なども色々ありそうなところ。実際ボートンに関しても、ルーズヴェルト大統領が、国務省を完全に無視していたとあり、戦後計画委員会を蔑ろにしていたことは間違いない様子。ともあれ、肉体的にも限界が来ていたという説が有力らしい。19454月には、ヒットラーが自殺し、ドイツが無条件降伏する。

 日本の無条件降伏に関して、上手く進めるかに関して、有名な「マンハッタン・プロジェクト」がある。86日に広島への原爆投下に関してだが、このプロジェクトは「極秘」で行われていたらしく、知っていたのは政府内でもごく限られたトップの高官のみで、ボートンら委員会にも知らされてはいなかった。

戦後の領土権に関して、樺太(沖縄諸島も含む)等の権利に関しては、賛成と反対に分かれていたが、ボートンの戦後計画策定委員会は、日本の権利として報告書では主張しており、承認されている。日本の降伏に関しての領土問題は、カイロ宣言からポツダム宣言を通して、現在のところに収まった様子である。トルーマン大統領は連合国最高司令官(SCAP)にダグラス・マッカーサー元帥を指名して、連合国司令部を組織するように指示した。

 

・終戦と憲法改正

終戦当時、アメリカ政府のみならず、国民の大多数が真珠湾攻撃を引き起こした日本の元凶の一つは天皇制にあると固く信じていた。ボートンたちに言わせれば、諸悪の根源は戦前日本の憲法条項であり、軍部首脳や超国家主義者が、目的達成のために君主を利用する力を得てしまったところにある。ただ、グルーが終戦直後に国務省を去ってしまったため、ボートンたちの立場は弱くなっていた。

日本の占領していた領土に関して、ボートンたちの間でもかなり議論されていたが、朝鮮半島に関しては、日本と違って、アメリカに朝鮮の内情に詳しい人物等がほとんどいなかったため、朝鮮に関しては政策立案ができなかった。その後、北緯38度線にて、ソ連とアメリカで国境を分かつことになってしまう。

終戦後、ボートンの文書「日本統治制度の改革」の報告書がGHQに提出される。マッカーサー元帥と、日本の政府、極東委員会等憲法改正の草案に関して検討され、ボートンの草案を基軸にうまくまとめられる。

 

憲法に関しては、終戦後、即席で作られたようなイメージがあるが、実はアメリカでは終戦の何年も前から憲法に関して議題が上がっており、かなり推敲されて現在の形になっているところは、日本国民は知っておくべき事実であり、戦前の明治憲法との違いや、修正点を理解しておくことは大事であると思った。

 戦前の明治憲法の諸悪の根源は、軍部に権力が与えられすぎていたことであり、それが、戦前の軍部主導の歪みを生み出してしまったというのが、ボートンの趣旨の一つであり、日本が反省すべき点でもあるというのは、戦前の敗北からも知っておくべき点であると思った。

  

・まとめ

 私自身は、高校時代は世界史専攻だったので、世界の戦時下における予備知識と個人的に今まで読んできた一般書物の知識程度の理解で感想を述べることになります。当時の状況から何十年もたった現代で想像でしか終戦を感じることはできないし、身近な祖父の存在や、戦時下を知る人たちの様子から、日本側から見た第二次大戦というのは敗戦であり、印象はあまり良くないものである。ただ、本書はその戦後憲法も含め、日本の設計という点で、日本のその後の経済的な成長や、「国体」の維持に関してボートン氏にはかなり日本は世話になっているように感じた。一歩間違えれば、植民地と化していた可能性もある中、ボートン氏やボーマン博士、グルー大使など、日本の文化に精通し、理解してくれている方々がいてくれたことは、日本にとっては幸いだったと思えてならない。

 日本国憲法に関しても、戦前の明治憲法との対比で、戦前の日本が絶対的に正しかったという評価は、間違いなく偏見であり、世界の中での評価や、日本の歴史全体から推察する必要がある。そういった意味では、自民党が憲法改正を常に主張しているが、自民党自体もアメリカの諮問機関によって作られた、リベラルの台頭であり、経済的成長と発展の中、単純には計ることのできない問題である。そういう意味でも、日本国内だけの主張ではなく、世界的な視点や、アメリカの文化等も理解したうえで、政治家は行動や政策をしなければならない存在であることは言うまでもない当然の話であると思う。

 本書は、政治家や歴史学者といった文化人は当然として、日本の一般国民も義務教育的に知っておいてよい内容であり、戦後80年近く経過した現代で、忘れることなく再考すべき事実ということを主張して、締めくくりとしたい。