我が人生は「不要・不急」か?

退職の意味

齢80を迎えて主な役職を辞したが、世間の平均よりも高齢まで、しかも自分としては性に合った仕事を続けることができたのは、とても恵まれていた。

いよいよ年齢のことも考えて退職したが、その後の生活がどうなるかははっきりとは予想できなかった。しかしいよいよその生活が始まってみると、予想しなかったことに直面し、戸惑いの毎日である。80歳になるまで続けてきた、仕事のある生活が突然「無い生活」になったのだから、心身に良くも悪くも何がしかの影響があるのは当然であろう。

多くの先人がその経験をされてきたのだから、その数だけの経験談があるはずなのに、一度もそれを本気で訊ねてみて、少しでも心構えをしておこうと思わなかったのは迂闊であった。勿論、人それぞれで他者の事例は参考にはならないかもしれないが…。

退職後の生き方

現役の時は所属する職場の仕事が降りてくる。民間企業なら会社の仕事に従事し、公務員なら公共に奉仕する、といった与えられた仕事をする。そして、その仕事の対価として給料をもらう。そのような場合、仕事をする意義は何かをいちいち考えることはまず無い。

ところが退職して自由人になると、文字通り自らの“自由意志”で好きなことができるということであるが、それは言い換えると、何かをする場合にその目的を自分で設定しなければならないということでもある。それが、散歩とか飲み会といった行動の動機を考えると、結局どれもが不要・不急で、もうどうでもいいか…となってしまう。20年近く前にリタイアした同輩が、「毎日することが無くて、ママさんコーラスのお手伝いをしている」というのを聞いて、優秀で大手企業の部長などしていた人物が、そんな生活をどう感じているのかと気にはなった。

しかし、いま自分が同様の立場になってみて、ようやくそのあたりのことが実感できた。自分にとっては意義ある仕事だと思ってやってきた役割が終わった丁度その時に、世界中を巻き込むコロナ騒動が起きた。その大騒動に関する様々な意見が報道やネットで見られたが、その中で一つ眼に止まったのが、以下に引用する新聞投稿である。それを読んで、偶々退職直後の自らの心境と考え併せていろいろと考えさせられた。

それは結局、「生きるとは」というところまで行き着くことになってしまった。そこで、折角無聊をかこっているなら、この思考過程を纏めて、大方のご意見を得てみたいと思うに至った。

コロナ禍での不要・不急

コロナ禍に際してしきりに言われたのが、「不要不急の活動を控える」という言葉である。それに触発されて書かれた、「我が人生、不要不急の積み重ね?」という新聞投稿に興味を惹かれた。曰く、

毎日の生活を振り返ってみると食糧品の買出し以外には必須の要件はありません。あとは月一の散髪か趣味仲間との会合、日々の運動ぐらいの外出です。延期や中止をしてもほとんど困りません。こうして拾い上げてみると、ほとんどが不要不急なことばかり。こんな生活を長年続けていたとは、私の人生不要不急の積み重ねだったのか?

(中略)

ここで、残り少ない人生を自己実現や自己熟成に振り向けるべきではないか?との思いが湧いてきました。改めて考えてみると、我が人生は必要不可欠なことの積み重ねだったろうか、という疑問が湧き出てきました。遅ればせながら、…我が足元を見直すきっかけにしたいです。

というものであった。

そもそも何が不要・不急?

実は、退職後の心境がとてもそれと重なり合うので、思わず“う~ん”と考え込んだ。つまり、自分のいまの日常は“決められた仕事“がなくなったので、朝起きて、さて何をするかを考える。ずっと自由人で生きてきた人なら、”何がしたいか“をいちいち考えることなく一日が始まるのだろうが、仕事人として生きてきた者はまず職場での予定表を見て今日の行動を決める。いまはそれが無くなり、白紙の予定表を前にして茫然としているというのが実情である。

ではどうするのか。「したいこと」があれば、自由に自分で納得してそれをしたらいいのだが、残念ながら突然に自由人となった無趣味の老人にはそれがない。今からコーラス仲間に入ってというわけでもない。そもそも「趣味」に生甲斐を持てるなら、こんなことを苦労して考え込むことはない。

ということで、「したい」という基準で探すのは諦めて、どうしても「せざるを得ない」行動ということで考えてみた。それはいうまでもなく、“食料の確保”である。たしかにこれまでご近所の老人が毎日スーパーから買い物袋を提げて帰ってくる。だがその姿を見て、「これがこの人の日課か」と何となく憐れむ目で見てきた。それが、いまは自分の身になって、なるほどこういうことかと分かってきた。つまり、「命をつなぐ」ことが生命の本質だとすれば、まさに食べることに関わる行為は、生き物全てにとって不要・不急ではない。

しかし、それだけでは「食べるために生きている」ことになってしまう。やはり、人として生きている意義が感じられる「するべき」仕事があってはじめて食べることにも意義というものがあるだろう。つまり、「ざるをえない(自然の摂理)」、「べき(社会的規範)」、「たい(個人の欲求)」という3側面から行動原理を探ってみようということである。

生きるに価値あること

食べることが必要不可欠であるとしても、それ以上の「生きる意義」に当たるものがあるに違いない…と、青年時代は真剣に考える。しかし、それを見出すには結局、「人が生きる真の目的とは何か」を知ることが前提になる。そんな難しいことを考えて、最後には「人生は無である」といって華厳の滝から飛び降りる青年もいたが、自分はそれほど秀才でも大胆でもないので、精々、関連する書物を読んで、きっとその内わかるのだろうと日和見を決め込んで、生き延びた。

古今東西の名著と言われるものはたくさんあって、自分が出会って心に残っているものの一つは、「ルバイヤート1)」(オマル・ハイヤーム)である。彼は難しい「べき」や「ざるをえない」は考えても詮無いことで、そんなことは忘れて、「したいこと」をしてよしとせよという。彼の場合は、酔いつぶれるまで飲んで迷いなど忘れよという。そう言えば、李白や杜甫も酒を愛することが人生、という詩が多い。“そうだそうだ”と賛成する御仁も多かろう。だが彼らは深く悩んだ末に達した一種の諦念を酒に託したので、単なる酒好きなだけではない。

今の時期に合わせたもう一つの新聞投稿に、これまで不要不急と言われて肩身が狭かった家庭科の先生が、「マスク作り」や「お家ごはん」などで、その大事さがやっと分かったのではと言いたげなのがあった。その中で、「人生は本来、不要不急なものと養老孟司先生が言われている」と引用している。

他の多くの思想家も、結局は「人生は無」に至るようである。思想家でもない自分には確信を持ってそう言い切る自信はないが、そもそも世界は“なぜ存在するか”という大元の存在理由が分からないのだから、そこにたまたまいる我々の存在目的が分かるはずがない。

他の人がこの難題にどう折り合いをつけるのか、改めて聞いたことはないが、たぶん「人生如何に生きるか」といった哲学書なり小説などを読む人が多いのだろう。しかし、だからといって多くが死を選ぶこともなく、答えを得ることも無いまま“社会に出る”。そして、何かの仕事に就いて働き始めると、これが人生の意義なのだと思って過ごす。現代は特に、すべての行動の価値は金で評価されるので、給料をもらうと社会的に認められ、生きるに価値ある人生と思って安心して日々を過ごす。

自分もそのような思い込みの時期を50年余過ごして、ようやくそれが終わった今となって振り返ると、投稿者ではないが「我が人生は必要不可欠なことの積み重ねだったのだろうか」という思いが湧いてくる。つまり、25歳から80歳までは、人生の意義を考えることを一旦放置した“モラトリアム期”であり、いま再び青年期の本来の思考に回帰したのである。だからいまの心理状態は老人特有の心の病というのではないと言いたいわけである。

ということで、改めて60年前の「生きる意義の探求」に戻ってみることにする。青年期よりも多少は経験も知恵も積んだはずなので、少しは答えに近づけるのではないかと期待しながら…。

命を持続することが絶対条件か?

昔から“飲む、打つ、買う”というのは、人が身を亡ぼすほどに入れ込んで、芝居、講談、落語などの題材として取り上げられてきた。それほど魅力のあるこれらの行為は、人によっては生き甲斐以上といってもいいではないだろうか。今回のコロナ禍の中でも、パチンコ屋とナイトクラブが批判を受けながらも最後まで営業し、「これがないと、することがない」と多くの客がインタビューで答えていた。それが生きる意義だとしたら、人生とはその程度のものなのかと、改めて考えさせられた。関心のない者にとっては、この種の行為は不要不急の最たるものであると思われる。とは言え、真剣に“生きる意味”を問うという苦行から一時逃避するには役立つ。

ところで、実はこれら道楽と呼ばれるものの中に不要不急と切り捨てられないものがある。それは、人が生きる意味の一つである「命の持続」に繋がる「恋」であり、不急ではあるかもしれないが絶対に不可欠なことである。個人の存在を支える「食」に加えて、人類が持続するのに必要なもう一つの行為は次世代に「遺伝子を伝える」ことである。それには異性に対する関心と行動が不可欠である。異性に関心の薄い人は、残念ながらその遺伝子は残らないので、はびこることはない。ただし、突然変異で一定数は出現するが…。

「生きる意義」議論の深化

「自らの生存」と「遺伝子の伝達」という二つ以外の様々な行為は、この二つを全うするための支援行動として位置づけられる。そうでない行為は人類持続にとって役立たないか有害なものである。この理屈に立って、人にとってなすべき行為の序列が出来上がる。それこそが「生命持続の原則」に立った人間行動の重要度リストといえる。

このリストができたらそれに沿って「生きる意義」が見えてくるはず…と思ったが、どうも必ずしもそうではない。そもそもが、個々人は命の持続を自ら意図して生きているわけではない。適当にしたいことをして、それがたまたま“持続に適っていれば持続し”適っていなければ消滅するだけという「トートロジー」の原理なので、この遺伝子の持続という原則に沿って生きない人は、「自然の摂理からダメ」とも「社会的規範から望ましくない」ともいえない。

ただ、そのような遺伝特性は残念ながら持続しないだけのことである。それが続いていけば、最後にはこの地球上にホモサピエンスは消えてることになる。こんな行末はあってほしくないと思うなら、皆が命の持続に向けて行動しなければならない。結局最後に行きつくのは「自然界の摂理」でも、「社会の規範」でもなく、「人の感性」が希めるところが、行動の原点である、というところに回帰する。

改めて「自らの生存」を再考してみると、いま生きている自分が「子孫の持続」だけのために生きるということではない。では今を生きる自分が目指すのは何かと、再び原点に戻ってきた。それに対するヒントが周辺の仲間から提起された。それは「自らの命の維持」の第一の目的が、単に“動物的”に生きて遺伝子の伝達役を果たして死ぬことではなく、“人間らしくより豊かな生を全うする”という「命の質」への意識こそが、生きる目的に繋がるという指摘である。

そう考えると、芸術、スポーツ、思索などの意義も見えてくる。また、恋が単なる遺伝情報の伝達行為でなく、もっと意味のあるものと定義できる、のかもしれない。長く難しそうな理屈の果てに、結局は自分がいかに「豊かに充実した」と思える生を送るかが生きる(半分の)目的であるという当然の結論に帰ってきた。

さてそれでは、その中身はどんなことか。それは、各自が望むところを、(いまの社会規範の中で)自由に生きることであるということになるのか。そう生きることで、その時の環境により適した遺伝特性を創り出すことができ、またそれが次世代に継承される。そうすれば長い人類の進化の歴史に一役を担う役目が果たせるのであろうと考えることもできる。

これまでは、遺伝情報の変化は偶然の突然変異によってのみ生じ、その変化に特定の方向性はなく全くランダムである。その変化の中でより環境に適したものが自然淘汰によって選択されて次世代に伝わる。なので、自分の努力や行為では遺伝情報は変えられないとされてきた。しかし最近の遺伝科学では、後天的に働く多くの進化スイッチがあって、それが環境に応じてオンされる仕組みが備わっていることが分かってきたと聞く。だとすれば、自分の世代で新たな環境に対応する特性を新たに身に着けて、それを次世代に伝えることが可能である。それなら生きる意味に新たに意味が加わる。ただし、意識下の生理レベルでの変化だそうであるから、親が頑張って勉強して身に着けた能力が、子供に遺伝するということがないことには変わりはない。

残念と言うべきか、当然と言うべきか、このような議論を深化させるほどには筆者の勉強はまだ十分ではないので、その作業は今後の課題とする。その際には、新たないくつかの課題の考察が必要になる。それは“何をもって充実した生”と定義するか、その充実度を人間の知情意がどう反応し、どう影響を受けるのか、さらにその時に身体のどのような特性が変化するのかなど、メンタル、フィジカル両面での相互反応に関する検討である。

退職後の生甲斐探しが深いところに入り込んでしまったが、これを深めていくのが新たな生き甲斐になるかもしれない。トンネルをあえてくぐってみたら、その中に偶然光るものが見えたということか。それなら目出度しであるのだが…。