「終末の記」~終末期というのはどんなものか~

いま終末期を強く意識するのは、たまたま大学のクラス会で出会ったばかりの同窓生が、次々に逝去したからである。当然自分の番が近いと思っても不思議ではない。しかし、その終末とはどんなものか?高齢化時代と言われているが、当事者としてその実態を分析・記録したモノは少ないようなので、誰に頼まれたわけではないが、暇にあかせて書いてみた。

(なお、引用した川柳は、一つを除けば市販本からの引用です。)

これまでの人生では

絶えず新しいことに出会って、新たな経験してきた。その最初は「物心ついた時」である。その時は、ちょうど夢から覚めた瞬間と似ていた。その場面をはっきりと覚えていて、「ああ、いま物心がついたんだな」という感じであった。記憶というものがそれ以降に始まった。その後人生のいろいろの段階で各種の体験をしては来たが、今回はそれらと全く異なる状況である。それを一言でいえば、“先がなくて終りがあるのみ”という実感である。

高齢者の状態

言うまでもなくまず身体と頭が衰える。それを、医師の久坂部羊氏が、著書『人はどう老いるのか1)』の中で、

“肉体的および機能的な劣化が進みます。目が見えにくくなり、耳が遠くなり、もの忘れがひどくなり、人の名前が出てこなくなり、指示代名詞ばかり口にするようになり、動きがノロくなって、鈍<どん>くさくなり、力がなくなり、ヨタヨタするようになります。”

と解説している。実際その通りであるが、そこまで丁寧に言ってくれなくても、「身体と頭」の急激な衰えは実感している。最初はそれに抵抗しようとしたが、次第に衰えが進んで否定しようがなくなる。そうなると、抵抗するよりむしろ受け入れたほうが気が楽になることに気づいた。

1) 久坂部羊「人はどう老いるのか」, 講談社現代新書, 2023.

まず身体機能

この機能の衰えを自覚するのは、「ふらつき」が起こり始めるときである。なぜこんなになるのか素人には分からないので、いらいらしながら何とかしようと努力するが、進行するばかりである。

“スクワット したはいいけど 立てません”

“壁ドンで ようやくズボンが 履けました”

“お辞儀して 共によろける クラス会”

という状態になる。シニアのリハビリ施設に行くと、ほとんどのご同輩がふらふらして、杖を突くか手押し車を押しているので、それは努力ではどうにもならないことなのかと、諦めると同時に、この中では自分はまだましな方だなと慰められたりする。これがシニアの集りに参加する一つの効用である。もう一つの効用は、日ごろは接する機会もない若くてきれいなスタッフさんにお世話をしてもらえることで、

“叶うなら 歳60を 取り捨てて やさしあの娘と 恋してみたい”(天声人語)

という記事が思い出されたりする。

ふらつき対策

とにかく研究を仕事にしてきた者としては、専門違いではあっても、そのふらつきの原因を究明したいと思う。その最大の原因として思い浮かぶのは、「足腰の衰え」という言葉であるから、歩く機能を鍛えるということが考えられる。そのためには簡単明瞭、「よく歩く」ことであろうが、それは危険と背中合わせである。そもそもふらふらは転倒の前兆なので、もし倒れたら即、「骨折→入院→寝たきり→埋葬」となる。ただし、最後まで直行であれば自分にも家族にもめでたいが、寝たきりで止まった場合は厄介である。

そこで、何とかふらつきを抑えることができないかと考えて、いろいろ試して見つけたのは、「座頭市歩き」である。「丹田に力を入れて、腰を落として、足裏全面で歩く」もので、のちに調べたところ宮本武蔵やメッシと同じ、理にかなった足運びであったことを知り、終末期に至って達人の域に達したことを喜んでいる。

自分の場合、ふらつきの原因は、脳へ行く動脈が細いためとMRIで言われているため、その対策は「力学」だけでは難しい。加えてもう一つの障害は「脊柱管狭窄症」である。百メートル以内に一度腰掛けないと歩けない。老人センターの仲間が手術したそうだが、この成否は賭けらしい。これら困難を抱えながら、命がけ!?で歩く練習をしていると、少しずつ距離が伸びていく。すべてが悪化していく中で、何か一でも改善されるのは嬉しくて、頑張っている。

最大の特徴は物忘れ

シニア川柳の主なテーマが物忘れである。

“早起きを したけど特に 用もなし”

“同窓会 終わって気が付く 部屋違い”

“物忘れ 日々感動で 新鮮だ”

など限りなくあって、シニアは誰もがあるあると納得する。忘れの原因は、これもMRIでは「海馬」が欠落しているからだそうで、「脳トレ」などで止めるには限界があるのだろう。物忘れといえば、その行き着くところは認知であるが、身近な観察からすると、「冗談も言ったことがないバカ真面目な性格」の者が、認知度?が高いように見える。そういうことなら自分は大丈夫と思っていたが、海馬の消滅はでどうしようもなく、物忘れは急速に進んでいる。

生理については

老人とくれば「トイレが近くなる」というのは常識である。トイレにも大と小があるが、もちらも中期高齢ぐらいになって始まり、後期に近づいて顕著になる。我慢がきかなくなってトイレに駆け込む。さらに進むと、いわゆる「お漏らし」状態になる。先日もスーパーのトイレから出てきたご同輩の前が濡れていた。「ああ、やったな」と気づくのは経験者だからである。なお、あの座頭市歩きは下腹部に力をうんと入れるので、そこらあたりの筋力が鍛えられて、お漏らしが減るという効果があることも伝えたい。

トイレが近くなって特に困るのは、夜に何度も起きるため睡眠不足になることである。そこで、どうしても昼寝が必要になり、これで昼夜逆転現象が起きる。若いころにも逆転は起きるが原因が違う。頻尿にたいする薬の広告が多く見られるのはニーズが多い証拠だろう。一方、大についてはこれと反対に出すための薬の広告が多い。広告は老人のトイレ事情を反映している。いずれにしても、老人は出すも止めるも容易ではなくなる。

出す方の話が先行したが、入れる方も問題はある。老人は食が細いなどと思っていたが、満腹中枢がマヒするのか今年の酷暑の中でも、若い者が驚くほどよく食べた。身近な認知さんは何度も食べる。それで歩くのも不自由なので、当然メタボ一直線かと思いきや、案外昔ほどではない。何も楽しみがない末期高齢者に対する神の恵みか。

究極のプライバシーである「もう一つの生理」であるが、聞くところによると老人ホームでも同衾がよく見られるらしい。“皺と皺を合わせて皺合わせ”という高齢者に固有の「幸せの形」があるそうだが、麗しいのか悍ましいのか微妙である。

フィジカルと同時に、もう一つの問題がメンタル面

これは先の記憶力という脳の問題からさらに進んだ心の「感情、情緒面」である。若いころに聴いた音楽、読んだ本、見た映画などが無性に懐かしくて、ラジオやテレビなどで懐メロを選んで聴く。これが新しいものを受けつけないことにも繋がるのだろうが、

“懐メロが 新しすぎて 分からない”

ではもはや何をか言わん。

「心の問題」は、伴侶が亡くなると寂寥は大きいようだ。ただし、相手が認知になりその世話に苦労すると大変で、無理心中さえ頭をよぎる。家庭内に加えて世間との関りも切れるので、現役時代には避けてきた同窓会に参加したり、用がなくても雑踏の中に出かけたりする。公園のベンチなどで見知らぬ人に話しかける年寄りがいるのは、人との接触を求めてのものなので、気味悪がらずに相手してやるのが功徳です。ただし、うっかり相槌を打つと離してくれなくなるのでご用心。

引退して暇になった先輩から、よく昔ばなしの長電話があって、その時は面倒だったが、自分がその立場になるとその心境がよくわかる。もう少し親切にしておいたらよかったと悔やんでいる。

“寂しくて オレオレ相手に 長電話”

だから、高齢者の長話にも時々は我慢してお付き合いよろしく、とういうのが後輩諸氏への頼みである。

最後の見送り

ところでこのファンの方々は、葬儀の時には弔問しないわけにはいかないと気遣われるだろう。そこで余り負担を掛けないようにと、今から「家族葬を予定していて参列は不要です。その代わりリモートで偲ぶ会をして」と頼んである。忙しい現役時代にそれがとても有難かった経験を生かして…。

“会費出し 葬儀の足しにと 返される”(確かに今はすべての会費が免除されている)

話が葬儀の段取りにまで来たので、終末の話も終わりです。後輩諸氏や老人介護に係わる家族・専門職の人たちにも、これが何かの参考になれば幸いです。老人は掃いて捨てるほどいても、このような体験記を書ける者はそう多くないだろうと、臆面もなく自慢できるのも老人の特性の一つ、かどうか。