「思い出の記」 ~著名人との出会い~

これまでの「終末の記」は、“老い”というものの実態を、できるだけ客観的に記すことを目指してきた。それは、すでに老いている人、これから老いようとしている人の生き方に、何らか参考になるようにと思って書いてきた。しかし、老人が何かを話したり書き残そうとする場合、普通は「過去の栄光」に属することを知ってもらいたいという願望が動機になることが多い。そこで、小生もここでその種のことを書いてみようという気になった。

小生の自慢は、戦争に行ってこんな手柄を立てたといった、昭和の老人のする得意ネタはない。それは戦時中に生まれたので当然だが、それなら親はどうかというと、バンザイで送られたが、徴兵検査で落とされたので、その夜に人目を忍んで帰ってきたのだから、手柄話どころではない。それではお前の自慢ネタは何かと問われたら、唯一多くの「著名人に出会う機会があった」という、特段に自前で自慢にするような話ではない。まあそんな機会が持てるような立場であったのだということは、ちょびっと自慢も入っているのですが…。

幸運な出会いに恵まれた理由

自分のしてきた仕事の特性から、様々ないわゆる「偉い方、知られた方」との出会いの機会を得ることができた。その仕事の特性というのは、「環境問題に関するわが国で最初の研究・教育に携われた」ということであった。

具体的には、研究機関や学会の長、審議会やNPOの代表などである。その立場のお蔭で、“学会、行政・政治などの長、マスコミやタレント称されるような人、さらに恐れ多くも皇室の方々”との出会いがあった。それも、通常の“拝謁”というような正規の形ではない異例の機会もいただくことができた。その際のエピソードを、失礼にならない程度に紹介しよう。ただし、ここに書く著名人は昭和の初期生まれの小生の思い出なので、同時代人でないと知らないかも…。

メディア・芸能関係の人々

公害から始まって地球環境いたるまでの長い「環境研究、行政、市民活動」に広く関わってきたので、出会ったメディア関係者として記憶に残るのは、初代のNHKニュースキャスターとして知られた「宮崎みどりさん」だった。次ぎは「国谷裕子さん」にも番組で呼ばれた。別途、一寸した解説番組にも呼ばれたが、番組のレベルによって用意してくれるホテルの格もペイも違うということを知った。

草野仁さん司会の番組にも、養老猛さんなどとお添え物として参加させてもらった。もちろん草野さんや養老さんが覚えておられるはずはないが、かなり長時間の収録で夜半にまでに及んだ。その他にもいくつかあったが、テレビでは笑いを取るようなタレントが案外愛想が悪いのに驚いたことがある。

一番印象深かったのは、桂三枝(現 文枝)さんと温暖化の話をするという企画であった。「私は、学会の三枝と言われているのですが…」と自己紹介したら、「確かに似てまんな」といってもらって、ご本人から認められて得意になって、勇み足をしてしまった。「環境問題というのは…?」という話になった時、「芝濱の“かみさん”みたいな人がいなかったのが、問題ですね。これは演じられることが少ない古典落語なので、ご存じないかもしれませんが…。」といったら「あたし落語家ですねん」と笑って返された。後に落語家修行のテレビ番組を見たとき、何百という演目を一言一句たがえず話す修行がどれほど厳しいものかを知って、実に失礼なことをいったものと反省した。しかし、頭の良い穏やかな人だと改めてファンになった。難しい温暖化の話を、咄嗟に子供を引き入れて展開されるそのうまさに感じ入った。

その他に、自分が司会した総理府提供番組というのがあって、その時にゲストとしてタレントが出演してくれた。例えば、歌手の庄野真代さん、おニャン子クラブの生稲晃子さんなどである。ほんの数十分の接点であった。

やんごとなき方々

実は、皇室関係のやんごとなき人達とも、お目に掛かる機会が結構多くあった。昭和天皇はご自身が生物学者で、国立公害(のち環境)研究所に何度かお見えになった。この時は、部長一同として私も並んでお迎えし、通りがかりに一同として紹介されただけだった。その次は、今の上皇さまであるが、国立公害研究所に来られて、テニスをし、昼食をされた。残念ながら小生はどちらにも参加の栄には浴さなかったが。

その後、天皇ご夫妻(現・上皇さまご夫妻)が「琵琶湖の日」の行事でご挨拶をされたが、その話の内容が話題を呼んだ。「いま琵琶湖で問題になっているブラックバスを琵琶湖に放流したのは自分であったが、今となっては後悔している」という内容であった。昭和初期に国民の飢餓を憂いて、外国から持ち帰ったバスを琵琶湖に放流されたのが、今や在来種を脅かしていることを謝罪されたものである。その誠実な態度が話題になったものである。

その日の夕食後に、地元の識者と懇談をということになって、嘉田知事が3人のメンバーを選び、その一人として小生も招待された。我々庶民なら、夕食後は寝床に転がってテレビでも見るのだが、上つ方は夕食後まで地元の学者の話を聞いて勉強されるのかと感心した。通常のご進講なら、遥か遠くから上奏申し上げるというイメージがあるが、茶菓のお相伴ということで、ホテルのしかも狭いシングルルームが用意されていた。その日は、上下の3つの階が一般客オフリミットだったので、どんな大きな部屋でも用意できたのに、挨拶すると皇后さまと頭が触れそうな感じの部屋だったので驚いた。

最初に我々に対して、「何をされていますか」と問われたので、小生は「持続可能社会というテーマで…」、と申し上げたら、「いま話題の sustainable society ということですね」と復唱されて、新しいこともしっかりご存じだと感じた。

話題は昔のお二人の海外旅行の思い出や、「皇居の庭の雉を見なくなったし、サーヤと濠でカエルなどを探しても見なくなったけど、それは何故?」など、気さくな話題であったが、「多分、いまの気候変動の所為でしょうかね」と曖昧な返事をした。後で生態の専門家に確認したら、植生が変化したからだろうとの回答をもらったが、訂正の手紙を出すのも恐れ多いと遠慮した。小生は、出された柿とわらび餅の記憶が残っている。

今上天皇とも何度かお目に掛かった。即位の挨拶に京都御所で地元の有志との挨拶会ということで、その時は京都の有志として招待された。出席者多数で、遠くから姿を拝見するだけだったが、お土産に頂いた「菊のご紋入りの容器」に入った金平糖を、孫が「天皇マークの金平糖だ」といって喜んだので、笑ってしまった。また、皇太子時代に筑波を訪ねて来られたことがあったが、その時はタイの王女の案内役ということで、当方もお付き扱いの感があった。さらには、メキシコの世界水フォーラムに出られて、ご自身の研究、「テームズ河の水運」の講演をされた。その時には同じホテルであったが、ちらと玄関先でお見掛しただけだったが…。

政治家の人達

そのメキシコの会議には後の嘉田知事も出席されて、同じホテルだったので、一緒に何故か「稲庭うどん」の夜食を食べた。その時に、知事選に出ると聞かされて、「現職に挑戦は無謀だ。止めた方がいい」と遠慮ないことを言った。実は、現職のマニフェスト、「滋賀の持続可能社会の姿」を、センタースタッフと小生が書いた。結果は現職が負けたので、私はグツの悪いことになった。そこで、当選挨拶にこられた新知事に辞職を願い出たが「何言ってるの、一緒にあの計画を実現するんでしょう」と叱られた。それ以後、議会で、「そんな過激な計画が実行できると思っているのか」という反対に合ったが、その際「“できる、できない”を論じている時はもう過ぎました。今はどうしてもしなければならないのです」という名言で押し通された。“その時から、わては、こいさんが好きになりました”というのはかつて流行った歌謡曲のセリフだが、そう言いたい心境であった。参議院議員になられた今も、お付き合いをさせてもらっている。

政治家と言えば、滋賀、京都で公明党さんと付き合いがあった。環境研究は社会に還元してなんぼ…と考えてきたので、議員さんとの付き合いは有効であった。その過程で、学会と称する信者のおばさんから、「学会メンバーになりませんか。ついては、この試験を受けて…」と誘いがあったので面食らった。「宗教は信じるところから始まるが、科学は疑うところから始まる」ので、科学研究を仕事にする限り、何かを信じることは研究者を捨てることになると返事をして、事なきを得た。

今回は、初めて「思い出話」をしてみたが自慢らしくなったかな。世間に知られた有名な人と、ほんのちょっとすれ違ったというのが、自慢になるわけではないが…。

まあ、老人が昔の手柄話をするのが楽しみであることは、世間周知のことなので、改めて奇異に感じられることは無いのだろうと、遠慮なく書き散らしました。