哲学と科学に関する炉端談義

哲学と科学について

哲学というのは“人間とは、社会とは、世界とは”といった、人間が抱く根本的な疑問を探求する試みである。筆者が断片的に耳にしているのは、ギリシャ哲学から始まる西洋哲学の系譜である。この西洋哲学とは異なる、インドや中国などの東洋思想については、耳学問すら無いので、ここでは検討の外におく。

それにしても、哲学に全く門外漢の筆者が、これに何かを語ってみようと考えたのは、急速に進歩した近代の自然科学が、「宇宙とは、自然とは、生命とは」の本質に迫りそれを解き明かすようになってきて、自然哲学に大きな示唆を与えると思われるからである。

ということで、その最新科学の知見を参考に、これまでの哲学を捉え直してみたらどんなことになるだろうか。しかし、先端科学にも哲学にも、ほぼ門外漢である筆者がこのような大それたことを考えたのは、公表して世に問うといった大それた気持ちではなく、いうならば、お迎え前にした末期高齢者のお勉強の成果を、閻魔さんへの手土産にでもしようと思ったからである。

これまでの哲学を概観すると…

ギリシャの自然哲学

西洋哲学の始まりとされるギリシャ哲学は、タレスの“万物の根源は水である”という言葉に見られるように、「自然とは何か」を考えるのが中心課題であった。さらには、水ではなくて、“火である”とか“土である“などの説がなされた。このような、自然界の成り立ちを探求するのは、今日の自然科学に通ずるが、現代科学と比してそのレベルは圧倒的にプリミティブである。

今日の素粒子物理学

かつては原子核と電子で構成される「元素」がすべての物質の単位だと言われてきたが、20世紀半ばから急速に発展した素粒子物理学では、“クオーク6種、レプトン6種、ニュートリノ2種”が「基本粒子」を構成しているというところまで解明された。まさに「万物はこの基本粒子でできている」ということになる。

この素粒子物理学の教えるところによると、宇宙というのが138億年前にビッグバンで誕生して以来どんどん広がっていること、万有引力の法則に反するこの拡大現象は、「真空エネルギー(ブラックエネルギー)」というものの存在によって説明されること、それは「一般相対性理論」から計算によって求められること、などが明らかにされている。

ここまで宇宙を解明した現代の素粒子物理学が、宇宙とは何かという「思想・哲学」に与えた影響は大きい。神の創造物と言われてきた宇宙の姿がここまで解明されたので、神の領域がどんどん小さくなってきている。もう神の出番は早晩科学にとって代わられるといった人もいる。しかし、科学とは「自然の構造・機能」を解明するものであるが、その「存在理由」を教えてくれるものではない。

ということで、宇宙の存在理由については科学は答えてくれないので、永遠に神の領域に属する。したがって、その中にいる微小要素である人間の「存在理由」が分からないのは当然である。もし「人はなぜ生きるのか」という理由を知りたいなら、科学ではなく神の領域に近づくための努力をして、「悟り」に近づくしかない。近年「仏教哲学」に関心が寄せられているのはそのような理由ではないだろうか。

中世以降の哲学

ギリシャ哲学が「自然とは何か」を問うものであったとすれば、それ以降の哲学の主対象は、「社会はどうあるべきか」にシフトしてきた。古代から中世へと時代が進むと、社会は、「村落共同体、都市、国家」へと人間の集団が大きくなった。すると、人間集団内、または集団同士が付き合うためのルールが必要になる。それが、道徳や文化として深められていった。この「社会のルール」は、「欲望ルール」に基づく人の行動に歯止めを掛けるものであり、それが倫理・道徳といった「社会の規範」として育っていった。これは、人間社会の約束事なので、時代毎の「文明」や地域毎の「文化」でそれぞれ異なり、時代や地域で普遍性を持つものではない。例えば、近世日本の社会規範であった「忠君愛国」は現代ではすっかり死語になっている。

近・現代の哲学

主に「人とは何か」という課題に関心が向かった。その要点は、「認識と現実、自己と他者、精神と心」といった、人間存在の内面への思索が深められていった。この「人間個人」を対象とする考察と、先の「人間集団(社会)」に対するそれとは不可分なので、一体として扱われることが多い。

生命に関する遺伝子科学

近年の「生命」に関する概念を明確に与えたのは“リチャード・ドーキンスの利己的遺伝子“という概念の提唱であろう。その要点は、

  • 「命の目的」は、「命を繋ぐ=自らの遺伝子を残す」ことであると規定した。ここでは「進化」の過程を、「生き延びるのに適した遺伝形質を持った生命が生き延びた」という、反論不可能なトートロジー(同義反復)として定義した。
  • したがって、命のあらゆる営みは、自分が生き延びて子孫を残すことに向けられる。もし、それ以上のもっと高邁な目標を目指した生命があったとしても、生存戦略に専念する生き物に淘汰される。これは、今までの常識である、<弱肉強食:適者生存>を、遺伝子の理論で裏付けた。つまり、生き物は子孫を残すのに適した特性を(たまたま)得たものが生き残っている。
  • その特性は、「弱肉強食」がその第一である。遺伝子にはこのような、他者を排除して自分が生き残ろうとする遺伝子が卓越しただろうが、社会的存在となって、人と人との関係の中で生きるようになると、互いに助け合う特性(家族愛、隣人愛、人類愛)などの他者への配慮が生存に有利になる。このような遺伝特性を、ドーキンスは「社会的遺伝子(ミーム)」と呼んだ。
  • この「生物的存在」と「社会的存在」の間での葛藤が、今日大きな社会問題となっているともいえよう。たとえば、メスに自らの遺伝子を残させるために、先夫の子供を殺すという行動がクマなどで見られるが、最近の人間界でも、女性の連れ子を虐待して、死に至らしめるという痛ましい出来事がしばしば報道される。これなどは、まだ野生の遺伝特性を強く残している男が結構いるという証拠だろう。これ以外にも、セクハラ、不倫など、近年頻りにニュースになる事件は、もともとの生物としての遺伝特性からくるものであって、特に不思議なことではないのだろう。
  • ドーキンスは、確率的に計算して、少なくとも生後7年目まで、オスは浮気せずにイクメンを頑張るのが、自らの遺伝子を残すに最適であるとしている。このような本来の動物として持っている特性を無視して、社会規範を厳しくしても無理があり、生物としての特性を配慮して法律を作るのが適切なのかもしれない。
  • 生物的遺伝子は専ら「利己的」なのかというと、他者にも配慮する「利他性」が結果として自らの生存に役立つこともある。恩恵を与えた相手から、「お返し」が期待されるので、そのような性質を獲得した生き物が生き伸びる機会を得た。それが生理的な特性としての「愛情ホルモン(オキシトシン)」の獲得に至った。
  • 「他者への攻撃」だけではなく、「他者への思い遣り」が、生物としての自らの繁栄、安寧、健康にも役立ったが故に、遺伝特性として具わったものである。このように、生物としても「利己と利他」の特性が同時に備わっているから、その狭間で葛藤するなど、心の複雑な動きが生じるのだろう。

「政治哲学」…今日的課題

現実社会に起こっている課題を取り上げて、公開講座の中で答えを探っていくのが、「実践哲学」または「政治哲学」である。ハーバード熱血講義で知られる「サンデル教授」のそれが人気を呼んだ。自由平等を前提とする現代の社会規範(ルール)が、実際の課題に対してどういう答えを出すかを探ろうとするものである。その一つの問題設定として、いま最も議論を呼んでいるテーマは、「社会的格差の是非」であろう。

これに対して、ここでは「自然科学の知見」を持ち込んで検討してみよう。

個人的な選好(美)

“思い遣り”のある(オキシトシン豊富な)人にとっては、弱者への配慮は自然な心の動きで、弱者排除などは許されないと思うだろう。しかしこれはあくまで個人の選好であって、万人が従うべき規範になりえない。現にある男が、「寝たきり老人などは社会のお荷物で、抹殺するのが正義だ」と主張して、老人ホームを襲撃した事件があったが、これには非難と同時に同調する声も多く聞かれた。

自民党の杉田議員は、「生産性」という尺度で人や社会のルールを決めるべきと主張している。生産性で人が評価されたら、社会的弱者や障害のある身体的弱者などは社会において差別、ないしは排除の対象になる。現政権が格差解消に消極的なのは、背景にそのような理念を有しているからだろう。杉田議員はその象徴である。

社会的な規範(善)

今日の社会ルールでは、「誰もが平等」という概念は(建前上)は誰もが否定しない。たとえば、「誰も置き去りにしない」といういま流行りのSDGsの目標は広く受け入れられているように見える。しかし、本音のところでは、格差があるのは当然、または仕方がないと思っている者が沢山いることは先の例でも明らかである。つい200年ほど前には、奴隷制が社会規範として普通であり、いまでもトランプに象徴される差別主義が力を持つのがその証左であろう。

今回の参議院選挙でN党党首は、少子化対策を問われて、「将来税金を納めてくれるような質のいい子を増やさなければ…」と党首討論会で言っている。ネットの反応は、大半がこれを支持する意見であったのには愕然とした。この種の「選別思想」の最大の問題は、線引きの境界をどこにするかである。例えば、「アーリア人」の優越性を主張して、他を劣等民族と定義して排除、抹殺しようとしたヒトラーの行動に近づいていく。

杉田議員も立花党首も、自分はそのような抹殺の対象にはならないと自信を持っているようだが、もし彼ら以上に生産性の高い人から抹殺を宣言されたら、当然として受け入れるのだろうか。アーリア人、アングロサクソンなどからしたら、アジア人というだけで排除の対象となる。現にコロナ禍のアメリカでは、アジア人であれば等しく暴力を受けた。このように、大きな問題は「強者と弱者の境をどう決めるか」である。老人ホームの寝たきり老人は無用だとして殺して回った。しかしその犯人は、寝たきりでも口が利ける老人は殺さなかったようであるから、彼には社会に無用かどうかの目安が一応あったということか。

自然界の摂理(真)

真、善、美という3つの価値基準の中で、人が否定できないのが「真(自然界の摂理)」である。それでは、自然界は“弱者排除を是”としているだろうか。

いま社会の持続可能性が危惧されて、頻りに「持続可能社会」への転換が求められている。そのような状態はなぜ惹き起こされたのか。これには、様々な議論があるが、それらすべての根源は、「強者が自らの欲望追求のために、弱者から飽くことなき収奪を続けたから」であることは、誰も否定しえないだろう。その場合の「強者」は、経済的、物理的に大きな力を持つ者である。

では、「弱者」とは具体的には何か?

  • まず一つは知られたように「将来世代」である。
  • もう一つは、絶滅の危機に瀕している「自然生態系」である。
  • そして最後の一つが「社会・経済的弱者」である。

これらはいずれも“物言えぬ”が故に、収奪され放題になってきた存在である。その収奪の結果として顕れたのが「地球環境の危機」であり、これはもう待ったなし、というよりすでに手遅れであることは、昨今の自然界の異変を見れば明らかである。それでも、“1.5度までなら、まだ間に合う”らしいことを言っているが、気休めにすぎないことは専門家ならだれも分かっているだろう。そう思っていないのは、無知か無知を装っているかである。

したがって、結論として、「弱者の収奪・排除行動を改めなかった人類は、この地球上で生命の持続はできなかった」ということになる。つまり残念ながら、生命が持続するような形では進化しなかった種である。