「終末の記」~敬老される条件について~

続きを読みたいという声は“お世辞”かも…とは思ったが、モノゴトは良い方に考えなさい、というのが先に紹介した“102歳の哲代おばーちゃん”の教えだったので、この際、言いつけに従って、良い方に解釈して続きを書くことにした。今回も久坂部羊氏の言葉1)を借りて話を始めることにします。

1) 久坂部羊「人はどう老いるのか」, 講談社現代新書, 2023.

久坂部羊氏の話

歳を取れば人格者になるというのは、まちがいではないが、せいぜい70歳前後まででしょう。それくらいの年齢だと、さまざまな人生経験から無駄なこと、無用なことを知り、精神的な余裕と自制心が培われて、若者からすると人格者のように見えることもあります。むかしはそれくらいでだいたいの人が死んでいたので、年を取れば人格者にといわれたのです。しかし、今はその先に20年ほども生きてしまうので、心身ともに衰え、若い世代の尊敬を集められなくなっています。そんなダメになった高齢者を敬えと言っても無理な注文です。

という厳しいものである。

本当に敬老してもらうには、高齢者自身が尊敬に値する存在にならなければなりません。

当然であるが、大事な提案は、

その方法はあります。自らの老い、苦痛、不如意を泰然と受け入れ、栄誉や利得を捨て、怒らず、威張らず、自慢せず、若者に道を譲り、己の運命に逆らわない心の余裕を持つことです。難しい注文ですが、だからこそ敬意を呼ぶのです。

とのこと。

70歳も越えて生きるには

高齢化社会では、70歳を越えてもまだ何十年も死なないが、これは医学の進歩のお蔭で無理に生かされているのか? そこは専門家に任せるとして、まあ、70歳を越えても敬老してもらおうとするには相当の努力、自制が必要ということは確かだろう。しかし、終末期の特徴は「もう先がないのでどうでもいい」という境地にあるので、それとは反対方向に行きがちになる。それではならずと、自分を顧みようとしたのが、今回の内容である。

久坂部基準では自分はどうなのか

「栄誉や利得を捨て、怒らず、威張らず、自慢せず、若者に道を譲り、己の運命に逆らわない心の余裕」と言われると、自信はないが一つずつ見てみよう。

まず、「栄誉、利得」では捨てるほどのものがないので大丈夫だろう。「怒る、威張る、自慢する」は自分が最も避けてきた友の条件なので、自分もほぼ大丈夫だと思う。「若者に道を譲り」についても、引き受けていた多くの役職は、引き留められている内に自分から引退したので、ほぼ合格ではないかと思う。「運命に逆らわない」というのも逆らうほど強い意志も欲もなく、どちらかというと「流されてきた」というのが特性なので、合格ではないかと思う。ここまでは老人として尊敬される条件に大体当てはまる…かな?

さて一番の問題は、「老い、苦痛、不如意を泰然と受け入れる」ことである。そもそも、この終末の記を書き始めた理由が、自分の「心と体」の不如意(望み通りにならないこと)への愚痴から始まっている。これを外に当たり散らす代わりに、書き記すことで解消しようというところは救われるかも…。有難いことに、それを読んで面白がっていただける人があったということが、徳の致すところとは言えないか?ということで、十分ではないがまずまずの合格点ではないか。

各地にファンクラブがあってくれるというのが、その証拠だと言わせてもらえば、「敬老に値する老人」の末席には座れるかという自画自賛で、今回は終えさせていただく。これで謙虚であるという要件からは外れたかも。

自画自賛はさておき、今回は敬老に値する老人の条件を論じたが、ご同輩には参考にしてもらえるのではないだろうか。多分あいつであれなら、俺は大丈夫と自信を持ってもらえたら役に立ったかな?