「終末の記」 ~認知の観察記〜

いま世の中で大流行の「認知」とはどんなものか?多くの専門家が発言されているのに、素人が今さら何を言えるか分からないが、もしあるとすれば身近に実例があるので、それを題材にして話を作ってみようと思った。そこは恐れと恥を忘れた高齢者の強みで?

普通の物忘れと認知の違い

認知の特徴は言うまでもなくモノを忘れることであるが、普通の物忘れ(ボケ)とはどう違うかを、まず区別しておく必要があるだろう。これは一言で、「自覚しているか、していないか」の違いらしい。確かに我が家の認知さんは、1分毎に忘れるが、自分ではそのことはほとんど認識していない。

10年ぐらい前に、親戚の通夜で看護師の義妹が気づいて、「いまは良い薬ができているので、早めに飲むといい」とアドバイスをくれたが、「私は認知なんかではない。もうあんな人とは二度と付き合わない」と激怒した。幸いそのことも既に忘れて付き合っているのがご愛敬だが。

一方、普通の物忘れは、自覚があるという。確かに、自分もこのところモノを忘れることが気になってイライラする。しかし、認知さんは「忘れたことを忘れている」ので、却って心安らかに見える。「そのことはさっきから何回も聞いた」というと、「そんなことはない。いま初めて言った」と逆襲される。これに反論しても無駄だから、こちらのイライラばかりが募る。

認知になりやすい特性

では認知になりやすいのはどんな性格とか特性を持つ者か。たった数例しか知らないのに、推理能力を駆使して自説を述べよう。

性格としては、「冗談など言ったことが無い、バカ真面目な性格」または「固定観念が強く融通が利かない」といったものだと身近な事例から推測される。例えば、子供の宿題に作文が出たら、まず「作文指導の仕方」というマニュアル本を買ってくる。一事が万事、まず手引書が必要で、独創性などというものとは無縁である。自分自身が研究を職としてきたので、独創こそが命であるが、その対極にある者と暮らしてきたのは皮肉というべきか。もう一つ、分類という能力が研究職の必須要件だが、それが全くないのは驚くばかりである。したがって、同じ商品を何度も買ってくる。また、靴下の左右や寝間着の上下も全部違っている。“みんな違ってみんな良い”と言いながら笑うしかない。

その原因こそ分類ができないことにありそうだ。どこにでも空いている棚に押し込むことが原因であることが分かる。朋友にそのことを言ったら、「それは性格ではなく、単に頭が悪いということだろう」と遠慮なく貶された。確かにそうだろうと思い、認知学会で「知能指数と認知の関連性に関する統計的考察」という研究プロジェクトを提案しに行こうと思っている。というのは冗談!

認知の周辺影響

身近に認知がいることはどんな影響があるか。これが皆さんの最大の関心事ではないでしょうか?程度にもよるが、当家のように、“短期記憶が3分間続かない”ようになったら会話は成り立たない。しかし、当人はおしゃべり好きで、絶えず人の会話に割り込んでくるので、その対応は困難である。

認知にはいろいろ特性があって、当家のように「女で幼児系」では、行動はおとなしい。しかし、「男で強力系」は大変である。気に入らないと暴力を振るう。時には、警察の力を借りる必要もあり大事となる。

暴力系と幼児系では、まだ後者の方がましに思われるだろうがそれほど単純ではない。当家のように、幼児系で大人しいが、動き回るのも幼児と同じで、片時もじっとしていないで、「何、何?」と言って人の話に割り込んで、「これ何?」と言いながら何でもかき回す。

認知のお世話

このように、その「お守り」は大変で、こちらも自分の高齢化で身動きが容易ではないので、この歳になってまでこの難儀は…と嘆く。まさに老々介護の悲劇である。

認知を家族で世話するのは、身体的にも精神的にも経済的にも大変となる。まともに対応していると気が狂いそうになる。無理心中の例もあるがよく分る。居なくなってもらうには、どんな手段があるかを漠と考えたりするが、当然ながら容易ではない。毒物は最も簡単かと思う。例えば、水仙とかスズランの球根は韮と間違えやすい。我が家の狭い庭にもそれらが密集しているので、誘惑に駆られる。車で海に…というのは免許も返したので無理か。歩行時に共にふらついているので、階段で突き当たるという手もあるが、「それではアパートがワケアリ物件になって家主に迷惑をかけるよ」と孫に注意された。そこで古風な手法だが、忍者が和紙に水を含ませ睡眠時に口に乗せるというのもあるそうだというと、「じいさん。時代劇の見すぎ。その頃と犯罪捜査の技術が違うよ」とこれまたダメ出しをされた。

まあ、そこへ行くまでに何か工夫が必要だが、何か言っても無視するぐらいしかうまい手が思い浮かばない。有難いのは、“無視”してもほとんど気にしていないことである。要は3歳児と思うと分かりやすい。ごまかすことはそれほど難しくはない。一番困るのは必ず「お守り」が必要なことである。家族の間でその押し付け合いが起こる。孫・子のためには自分が引き受ける羽目になる。

公的な支援

近年は福祉のお世話がかなり行き届いていて、その種の施設で預かってもらえる。当方の経費負担は1、2割ほどであるが、その残りは福祉予算から出ているので、その負担も大変だろうと想像できる。だがこちらも年金から相当額が差し引かれているので、世話にならないと損だという人もいる。

認知に加えて高齢者の預かり施設には各種あり、その利用頻度や内容は認定のレベルに応じて限度がある。「要支援」と「要介護」ではランクが違うので、受けられるサービス内容が変わる。限度一杯頼んで、引き受けてもらう。施設行きの最大の問題は、「嫌がる」ことである。それを騙し賺ししながら送り出すのが難関である。

自分もリハビリ施設に行けるので、早くランクアップして回数を増やしたいと希望しているが、これには「ケアマネジャーと掛かり付け医」の判断が要る。問診の時には、食事も風呂も介助が必要です、ということになればランクが上がる。出来るだけ出来ないこと!をアピールしなさいという忠告を友人がしてくれるが、見栄もあって演技も容易ではない。その時のために若干の見栄を捨て、機能低下を誇張する、心の準備をしておいたらいいかもしれない。

これから認知症の家族を世話する可能性のある人は多いだろう。ほんの1、2例を元に、推測を拡大して記述したが、もっと事例をお持ちの方からのご意見を頂きたい。それらを参考にさらに内容を充実して、「認知マニュアル」を作るのもこれからの社会にとって功徳になるかも…と思う。賛同し身近な事例を紹介いただけたら幸いである。