「終末の記」 ~老人は生産性がない?(その2)~

老人の生産性

杉田水脈議員が「生産性」によって人の価値を測るようなことを発言している。今の日本社会では杉田さんの主張を支持する人が多いが、そう言われると老人は生産どころか社会にマイナスであるともみえる。もしそれで、老人が評価されて姨捨山に捨てる法案でも作られたら大変だと、反対意見を言いたくなったが、反対の根拠を上げるのは容易ではない。

それは「評価とは何か」という議論にまで行かないと正確な話はできないからである。これについては、書物も書き講義もしてきた経験もあるので、蘊蓄を披露できるかとも思ったが、「終末の記」にはなじまないので、なるべく分かりやすく纏めてみようと思う。

「老人の価値」を生産性で語るのが、なぜ問題かを簡潔にまとめると、

  • 生産性を評価するとしても、「現時点だけではなく、過去から未来に亙る生産の総和」でしなくてはならないこと。これで、いま現在は価値がない「幼児や病人」の価値も測ることができる。
  • 何かに役立つことだけで「生産性」を評価するのは間違っている。一例は、地価が高かったバブル時代に、東京湾や琵琶湖を埋め立て、土地にすれば膨大な儲けになるとして埋め立て計画があった。当時は賛成も多かったが、いまでは多くが反対するだろう。今でも、金目だけで計算すれば、埋めてうまく使えば、もっと儲かるかもしれないが、誰もそうは思わないのはなぜか?それは価値には、大きく「利用価値(実際に金目に役立つこと)」と「存在価値(存在自体が価値)」がある。赤ん坊は、将来何か役立つからではなく、親にとってはその“存在自体”が至高の価値である。
  • 老人は「生物的遺伝子」は伝えられないが、伝統や文化といった「社会的遺伝子」の継承者である。
  • 今生きている人間の「社会的な価値判断」の上には、「自然界の摂理(法則)」がある。いまや地球環境の異常が人類の存続を危うくする段階にあるが、それは際限なく「生産」し続けた強欲資本主義社会が、「自然界の生物、将来世代、途上国」などモノ言えぬ弱者に、そのつけを押し付けた結果である。それでもまだ生産性を大事な価値とするのか。

などがいま思い付く理由であるが、皆さんのご意見はいかがでしょうか?