「終末の記」 ~「魂」の存在は?~

先に、息を引き取る「まつご」のことを書いたので、それでもうシリーズは終了のはずであった。しかし、死というのを深めていくと、「魂」の有無の議論が残っていることに気づいた。

ぞこで、イェール大学で23年連続の人気講座という、シェリー・ケーガンの、「死とは何か」と題する哲学書を、目次だけ参考にしてみる。愛読する「鬼平犯科帳」でさえ、400ページもあると流石に疲れるだろう。まして難解な、「命とは」などという哲学書では、生きている内にとても読めるとは思えない。もし途中で死んだら、実体験として「死とは何か」が分かるだろうが、その場合に還ってきてその話をするわけにはいかない。

―あの世とは:「きっと良いところに違いない。なぜなら行って帰ってきた者はこれまで誰もいないから。」

魂の存在を否定

ケーガンは哲学を語っていて、論理的に証明できないからと「魂」というものを否定する。門外漢の浅知恵であえて言えば、西洋の合理主義で命を科学的に論じようとする態度そのものが、神仏が身に染みている我々東洋人には相容れない気がする。

「死を避けよう」とするのは、遺伝子の存続を旨とするジーン(生物的遺伝子=本能)の本質である。実際に恐れているかどうかは分からないが…。しかし人間はミーム(文化的遺伝子)を獲得したために、他の生物以上に「頭の中で考えて」死を恐ろしがるのだろう。しかし、その恐れをまた、ミームの力を借りて何とか「心安らかに」できないかと願う。その有効な手段の一つが、「魂の存在」を信じることだろう。

魂の存在を信じる

「お母ちゃんは、お空のお星さんになってあなたをいつも見ているよ」とか、「お婆さんは、極楽に行ってお釈迦様のところで幸せにしているよ」とか、西洋人でも「彼は天に召されて、神の御元で安らかせ眠ってください」などと言って花を棺に乗せている。

そのように、死後の世界を考えることで、自分が死んでもその瞬間に「無に帰する」のではなく、魂がどこかに逝ってまだ存在すると思えてどれほど心が休まるか。一方、残った者も死者の魂が…と思うことで、心の安寧が得られる。このように、「魂」がどこかに存在すると思うことで、死にゆく者も、遺された者もその心が休まることは確かである。それならそれでいいし、何も悪いことはないではないか。一生懸命に哲学的思考を深めて「否定」してくれても、我々庶民には有難くはない。

魂が残るとしたとき多少問題があるとしたら、魂のために永代供養などと料金(お布施)を取られることであるが、それは心の安寧代だと思えば仕方がない。それにしては結構高いなと、親族一同が陰でボヤくのをしばしば目にするが、安くしたければ、樹木葬とか海での散骨などという金の掛からない選択肢もある。千の風になって、辺りを飛んでいるよと歌ってくれているので…。

ところで、あの世に関わる場合は「散骨」だとか、料金も「お布施」などと、うまい言い方がされる。我々の商売内ではこれは「海洋投棄」と呼ぶものに相当すると思うが…。これでは産業廃棄物みたいで、いや正確には「一般廃棄物?」ですかな。これでは身も蓋もないですね。